南米の何処かの港町。決して十分ではないその日の稼ぎの中からなけなしの一部を酒代に代えて、照明ばかりがけばけばしい酒場で屈強な男達が情熱的に体をくねらせる。酒と踊りの刹那的な快楽。汗とアルコールと良く分からない煙で退廃的に霞んだ室内の空気。
響くのはリズミカルで力強く、情熱的でどこか物悲しいスパニッシュギターの超絶技巧。なんとなくタンゴというとそんなイメージを持ってしまう。
数日続いたワルツの講習は一旦おいてタンゴの練習が始まろうとしている。ワルツは何とか個人でも練習できるくらいには慣れた、と普段も剣呑、練習の時は鬼コーチと化す父親が判断したのか二代目オーナーの三十半ばからの社交ダンスは次のステップに入ろうとしているのである。
ダンスに無知な自分にとってタンゴはラテンの科目に入る物と思っていた。うちの両親はラテンはあまりやらずスタンダードをほぼ専門にしていると思っていたので良く知っている父が、母が情熱的なタンゴの踊りに合わせてきびきびと踊る姿は意外でもあり、新鮮でもあり、だけれどどこか小恥ずかしい物もある。
決して両親の踊りを卑下している訳ではない。むしろ両親が踊るのを観ているのは好きなのだ。
ただ、こういった情熱的な音楽に合わせて繰り出される踊りはどこか男女の秘め事を感じさせる物である。とするならば両親はダンスを通して愛を語り合っているのである。他人ならいざ知らず、両親のそういう姿を見るのはどこかやはり気恥ずかしい物なのだ。元来、自分は男女の距離感の近さに抵抗を感じてダンスを始めるのを躊躇っていた人間なのだからそれは尚更の事。
これは舞踏であり、芸術であり、何らかの感情表現の場なのだ。そういったやましい感覚は捨てて、真摯な心で取り組まなければならない。よし、集中しよう。
まず基本姿勢。右足を少し引き、軽くひざを曲げる。右ひざが軽く左ひざの内側にこする位の感じをキープする。
そして、このときの頭の高さを絶対にキープすること。これが基本姿勢。タンゴポジションらしい。
この状態から左足を前方に右足とクロスさせるように運ぶ。当然頭の高さがゆれないように。
左足をかかとから着地したら右足のつま先をホールに押し付けるようにしながら左足にひきつけ、そのまま滑るように前方に押し出しかかとから着地。この時右肩、腰も同時に前進させる。
そしてぐるぐると円を書く様に、意外にも重厚な足取りでぐるぐると円を書く。タンゴというと足の運びは軽やかなイメージを持っていただけに、父親が床を滑らせる足の動きが重厚さを伴っていたのはとても意外だった。父いわくこの重厚なステップと、そこからの動的切り返しのギャップの差が切れを産み、それがタンゴの醍醐味だそうだ。
ただただ力づくで首を切り返し、足をスピーディに運ぶだけでは、曲が消えた時に何を踊っているのか分からないらしい。曲と、その表現の意味を理解しろ。そのことを切々と語り続けられる。
なんとなく理解できるような気がするが、いまいち良く分からない気もする。実際に父親が踊る姿は確かに格好良く、そういわれてみるとうちに合宿に来る学生達のタンゴとは、重厚感という意味で一線を画している様な気がする。
が、練習中、最初から最後までどうしても一つだけ解せない点があった。
しきりに父親が口にする単語。「リズムをスターカットに」。スタッカートの事だろうと理解する。講習の合間に「父さん、それってスタッカートの事だよね?」と
さらっと訂正しようにも、父親の口から発せられるのは「スターカット」ばかり。むむむ。これは星を刻むように切れのあるステップを踏めという事なのか・・
余談だけれど、父親とよく原発問題について語り合う。父親は筋金いりの原発反対者であり、共に働くようになってから仕事の合間に色々と恐ろしいような話を沢山聞かされる。
気がつけば自分もいっぱしの原発反対者になっていた。そんな父親はメルトダウンの事をいつもメトロダウンといっている。そして何回訂正しても一向に直らない。人間の慣れと思い込みというのは
なかなか厄介な物なのだ