全く牧の入りスキー場の魅力を発信できなかった前回。
猛反省し、矢継ぎ早に今期再開する「牧の入りスキー場」の持つ魅力を発信しなければならない。気まぐれな旅人たちの、古き郷愁を誘う、ガンジスの原風景を求めるインド人たちのハートを鷲掴みにし、彼らの関心を木島平・牧の入り一色にそめあげなければならない。そう心に誓う。
このマグマのような胸のたぎりは使命感とも言えない。
もはや強迫観念のような、例えば僕がある種の生命体の、最後の牡(オス)だとする。他に子孫を残す事が可能な個体が存在しないことが明確な状況に置かれていたとする。
果たして脳は覚醒するだろうか。何とかしてこの種の遺伝情報を、染色体を後世に繋げなければならない。やっきになって対象体を探し、種を残そうとする姿は、傍から見たらとても浅ましい印象を、見る者に与えてしまうかもしれない。
それでも。
それは生存本能のもっとも究極的かつ、始原的な発露。眠ることよりも、食べる事よりも、種を残す事を至上命令となさなければならない業を背負わされた、種族としての責任と呪縛。
突き詰めるならば肉体は結局、遺伝子を運ぶための器に過ぎない。という、生命の冷酷にして圧倒的なる一面の前には、我々が必死になって叫び肯定しようとする愛も、善も、文化もモラルも、クリスマスケーキを彩る生クリームのように、いとも簡単に喰い尽くされてしまう。後にのこるのは、剥き出しの、不器用なまでの芯。リアリティ。苔むす岩のようなスポンジケーキ。
後世に種をつなぐ。唯一にして至上なる使命遂行の為のみ生きる状態。それはたぶん一個体の抱える業(カルマ)の為には生きられない。進化と淘汰の果てに獲得した生命形質の奥深くに、夥しい数の魂の記憶が封じられている。それは炭火のようにくすぶり揺らめきながら、個体の自我にも種の宿業を投影しつづける。そして、何かのきっかけで風が吹くなら燃え上がり、個の自我を埋め尽くすリアリティを獲得するのだ。
僕が牧の入りゲレンデ再開を喜び、それを世に知らしめなければと感じた情動は、僕個人の商売的理由だけではなくもっと種のレベルで突き動かされるものだったように思う。
だけど、強く真っ直ぐな思いほど無慈悲な世の波に揺さぶられやすいモノなのであります。
それからすぐにまた、東京に営業に行くことになり、経費削減のため漫画喫茶にて夜を明かす日々の中で、すっかり体調を崩してしまったのであります。あと、お腹周りを二三箇所ノミに食われたりして。そして、胸の奥のゆらぎが、大脳新皮質ではなくもっと古い動物じみた脳が命じていた、牧の入りを世に知らしめるという情熱もすっかりと乾いてしまったのでありまして。あとに残ったのは数箇所の、真っ赤に腫れ上がったノミの刺し傷の、気が狂うほどのかゆみだけ。
そう思うとあの時感じた情熱も、そんな時空と遺伝子を超越した、アカシックレコードのような大した物ではなく、僕の一時的なハイテンションに起因していたようであります。そんな訳で、平常のだらけたテンションの元、それでも牧の入りの魅力を少しでもお伝えできればと再びノートPCの重い蓋を開けたわけでございますが、早くも紙面の関係上続きは次回に譲らざるを得なくなってしまいました。
この次こそは必ずや、牧の入りがいかに素晴しきゲレンデなのか。証明したいと思います。
すこしだけ情報をリークするなら、どうやら大洪水を逃れたノアの系累とひとつがいの動物たちが漂着したとされるアララト山、どうやらそれは木島平のことを指していると思われる記述が・・・・・(続く)