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~太古、ニンゲンはさまざまな自然物を信仰の対象とし、被造物の中に神性を見出し崇め、畏れ、向き合いながら生きてきた。創造主に似せて造られたとしても、その存在はあくまで土に従属する。

どれほど人間が権力を行使しようとも一度神の怒りの酒船を踏むなら、一夜にして全ての物は崩れ去る。本来人間は己の矮小さを受け入れながら土に根ざし生きて行く存在である。

文明が発達し、小ざかしい知恵を持って神=自然を支配し己が物としたような錯覚にとらわれた人間は、増長し、土から生じる物の代価として制定したはずの貨幣という概念そのものに価値を持たせる。

それはシステムとして暴走をはじめ、たがの外れた欲望と共に世界を混沌と失望に塗りこめ、ついには人間は忌み嫌ったはずの獣以下の存在に成り下がる。

 

おろかなニンゲンよ、己の矮小さを受け入れ、土の声を聞け。再び土に還らねば、荒ぶる神による五度目の滅びがお前たちを襲う。次にくるそれは、根源的な滅びにいたるであろう。心せよ・・・・~

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晩秋にさしかかりヤギさんたちの恋する季節もいよいよ終わりに近づいてきました。今年からちきちきばんばんにやってきた二匹のヤギ。母親の絹(一歳半。ニンゲンでいうと27歳くらい?)もついにサカリを迎えるようになりました。乳をとる期間が長かったりえさにこぬかを与えすぎたりで、ちょっとサカリが遅くなったかもしれません。

僕が東京に出張に行って、木島に戻る前日にさかりが始まってしまった為に一人ヤギの世話の為に残ったさっっちゃんからあせりのメールが送られてきます。

いわく「絹がさかりはじめた・・・・おちつかないし泣き止まないしお尻の米印から※※※※(自主規制)がとまらないの」

と言うことで疲労困憊の身の上でありながら種付けをしてくれる畜産農家を探すことになりました。ヤギを譲ってくれたトヨタ村の農家のおじさんから須坂の畜産家を紹介してもらったのですが、どうやら須坂までヤギをはこんでいかなければなりません。ってゆうか、譲ってもらう時にはこっちに種付けに来てくれると聞いていたので油断していたのですが、話が違います。まあ、ヤギ関係者は大概アバウトでその場の勢いで物を言うので気にしていられませんが。

ちなみに、ヤギ関係者に悪い人間はいません。これは心からそう思います。

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ヤギを何とかして須坂まで運ばなければなりません。農業用の軽トラや畜産移動用の車なんてものはうちにはなく、さちえの愛する軽自動車で運ぶかと提案したらそんなことしたら離婚すると脅される始末。

タクシーはヤギを見たとたんに乗車拒否されることは想像に難くない。残るは公共の交通機関となります。別に駅に「ヤギは乗せられません」とは書いてないので、法律上は問題ないと思うのですが、問題はヤギの切符はどこで買うのかということです。ネットで調べてもそんな情報はどこにも流れていない。途方にくれるわれわれ。

ああだこうだ話しながら結局うちのワゴン後部座席をヤギように改造して運搬する運びになります。

ヤギを車に苦労して乗せ、餌やらわらやらでなだめすかしながら須坂へと舵を取るわけですが・・・・

なれないエンジンの咆哮、移動する空間、餌が足りない状況、そしてサカリ。車の中でヤギは前述するあらぶる神の様に振舞うわけです。それにしてもヤギという動物はとても哲学的な目をしています。

サカリ、普段とは違った原始の咆哮をあげるヤギの心を推し量ると前述したエピローグのようなものが聞こえてくる気がするのです。

さて、種付けの顛末はまた次回・・・・・

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