長野県は木島平、ダンスの宿ちきちきばんばん公式ブログでございます。
2019年春のダンス合宿の記憶を振り返りながら記事を書いていますが、いかんせん二ヶ月近く前の事。
ただでさえ朦朧とした意識の中で見聞きしたあれやこれやをほじくり返そうともうまくいかないことも多々あります。
ので、時に行間を埋めるために本来は無かったはずの出来事が記述されている事もありますが、その辺は多めにみてくださいまし。
そもそも、記憶という概念自体が非常にあやふやな物。
目が、耳が、皮膚が、さまざまな感覚器官が外界から受ける刺激を脳が処理し、現実として再構築した物を我々は認識し、そして記憶として蓄積していくのです。
目で見ていると思っている何時もの風景、その実態は視神経からの入力を脳が処理し脳内スクリーンに展開している映像を認識しているに過ぎません。目で見ているのではなく、脳に見せられているのであります。
という事は、現実にはありえなかった光景も脳がそう見せれば、それはその意識格にとっては現実の事となってしまうのです。
これは、記憶にも当てはまります。
実際にはありえなかった事実も、脳が過去にあった物として認識してしまえば、それはその意識格にとっては事実そのもの。
そして過去の映像をすべて記録でもしておかない限り、それを否定する事は非常に難しいのであります。
しかも、脳には厄介な機能が備えられています。それは、脳が都合の良いいいように現実を補完してしまう機能があるということ。
音楽をやっていると良く分かるのですが、演奏を聴いていると、様々な音の重なりの中に、実際には鳴っていない音を聞いてしまう事が実は良くあるのです。
様々な音色、音階の織り成す綾の中に鳴っていて然るべきと脳が判断した音色が勝手に付け加えられてしまうのです。当然、現実にはなっていない音であり、他人には聞こえていません。
音楽の分野では割りと良くある事なので引き合いに出させてもらいましたが、実はこれは視神経においても存在する現象なのです。
現実の風景の中に、あって当然と認識する物を脳が付け加えてしまう。
逆もあります。あまりにも不自然な物、現実認識に不都合を起こし思考を困惑させてしまう様な物が視野に飛び込んできた時。
脳はそれを無かったものとして処理してしまうのです。そうしてフィルターの掛かった映像情報を意識格がうけとり、現実として認識してしまうのです。
脳から生じる意識格をもって現実世界を認識しようとするとき、どうあがいても現実の本当の姿に触れる事は不可能なのです。
これから一橋大学競技ダンス部の合宿模様をつらつらと書き綴っていくのですが、果たしてそれが本当にあった出来事だったのか。それは誰にも分かりません・・・
といってもたいしたことがあったわけではないのですが。たまには哲学的な事も考えてみたくなります。春ですから。